『風立ちぬ』
[著] 堀 辰雄
- 「風立ちぬ,いざ生きめやも」
- そういう時間から抜け出したような日々にあっては,私たちの日常生活のどんな些細なものまで,その一つ一つがいままでとは全然異なった魅力を持ちだすのだ.私の身近にあるこの微温い,好い匂いのする存在,その少し早い呼吸,私の手をとっているそのしなやかな手,その微笑,それからまたときどき取り交す平凡な会話,ーーーそういったものをもし取り除いてしまうとしたら,後には何も残らないような単一な日々だけれども,ーーー我々の人生なんぞというものは実はこれだけなのだ,そして,こんなささやかなものだけで私たちがこれほどまで満足していられるのは,ただ私がこの女と共にしているからなのだ,ということを私は確信した.
- そういう犠牲をまで病人に当然の代償のように払わせながら,それがいつ死の床になるかも知れぬようなベッドで,こうして病人と共に愉しむようにして味わっている生の快楽ーーーそれこそ私たちを,この上なく幸福にさせてくれるものだと私たちが信じているもの,ーーーそれは果して私たちを本当に満足させおおせるものだろうか?私たちがいま私たちの幸福だと思っているものは,私たちがそれを信じているよりは,もっと束の間のもの,もっと気まぐれに近いようなものではないだろうか?...